カウンターキッチン

Aug 20, 2017  

2月に東京へ引っ越してきて半年以上がたった。自転車での通勤する中、その途中にある小さい料理屋さんが毎日気になっていた。 ちょうど、家に食べ物も、待ってる人もいない時、そこで夕ご飯にしようと寄り道した。

小さな店内で、カウンターとテーブル席が2つほど。カウンターから店内が見渡せ、亭主一人で切り盛りしている。 いつも前を通るときは賑やかな店内に、その日は、少し時間が遅く客は自分しかいなかった。カウンターのすみに座り、オススメに書かれていた料理数点と瓶ビールを注文した。

料理は家庭的なものを少し丁寧に作ったもので、その割りに値段はやすく、アルコールも入り気持ちよくなってきた。 上機嫌になった私は、亭主と話したくなり料理のことだったか、近所のことだったか忘れたが、話かけてみた。そうすると、亭主が、会話を売りにはしておらず、話しかけてくれるなという態度を最初から示しているし、残念ながら話を楽しみに来てもらったら、終わりだと思っている(料理に誇りを持っている)という趣旨のことを返された。

あまりにも自分はびっくりするとともに、確かに最初からそいういう雰囲気を亭主は出していたことを思い出した。

待て待て、小さな居酒屋というものは、カウンターキッチンのあるオープンのところは、そういう会話や雰囲気を含めて、美味しいとか楽しいとかそいものが商売じゃないのだろうか? 納得がいかないけど、確かに態度には出てた。体に入ったはずのアルコールは少し違う作用を体に及ぼし、求めていたお酒の味から変化を始めた。いっぱいで切り上げ、帰宅した。

値段と味と通勤路にあることを総合して、もしその時、私の想定したやりとりの範囲だったら、また何回か行くことになっただろうが、そのあと一回も行っていない。

数ヶ月後の今日、急にそれを思い出した。あのカウンターキッチンは、あの亭主にとって、一人で回すために、お客さんを見ながら、料理をするためのもので会話するためのものではない。あの亭主は味に自信があるが接客はしたくないが、人をもう一人やということはできないんだと気付いたのだ。

エンジニアの仕事をしていて、一般的に社会で求められるコミュニケーション能力が少し期待と違うが、優秀なエンジニアが身近にたくさんいる。それで仕事に問題があったことはない。社会が想定しているコミュニケーションなんて、特定の仕事にしか必要なく、それが全ての職種に期待されてしまっていると常々思っていた。そんな多様性のあるエンジニア職をいいなと思っていた。

にもかかわらず、自分は接客業である飲食にそれを求めていた。飲食業は接客業の面もあるが、飲食業だったのだ。考えたら、料理人にだって自由がある。大きな店で、雇われながらキッチンで一生懸命ご飯を作ることもできただろう。でも自分でやりたいが、接客は苦手な場合どうすればいいのだろうか。自分でやってる店だからどんなスタイルでもいいのではないか。お客さんが想定するバランスが著しく崩れていても、そこに価値を見出すお客さんいれば、亭主にとって私が二度とお店に来なかろうが、合わせ過ぎることはない。

自分の中にある慣れ親しんだ感覚が想定したものが裏切られると、反応的に違和感と不快感が訪れる。アルコールもどこかに行くほどだ。ただそういう店が繁華街ではない場所に位置し、あの値段と味のバランスで存在していることに今となれば、東京の良さを感じる。そう、もう一度ぐらい行ってみてもいい気がして来たのだ。